いらない命
楽しいことを記録しようと始めた日記、楽しくなくなったら自然と書けませんでした。
昨日は2時間ほど泣きました。泣きながら自殺ツイートもしました。朝陽が昇り、昨日の自分は恥ずかしいですか?というと、恥ずかしい気持ちはなくはないですが、あれも本当の自分ですから恥ずかしくてはいけません。
いまでも死にたいです。
人間の半分が女なのに私は産まれた時に外れました。人の99%以上がシスジェンダーなのに私は産まれた時に外れました。最悪じゃないですか。
もしもうちょっと外れて違う生物に産まれたら、私は決して命が大事なんか教えられないはずです。
なんで命は大切なんでしょう。私は毎日肉を食べていて、みんな食べていますね。鶏や牛や豚の命だって命なのに、殺してはいけないなんて誰も言わないじゃないですか。
もっとストレートに死んだ方がいい命と生きている方がいい命を分けた方がいいんじゃないですか?
やっぱり私は優生思想の持ち主だな…とそういうこと考えるといつも思います。
優生思想のどこが悪いのでしょうか。私は殺されても構いません。むしろ生きている限り、どう頑張ればいいすらわからないのに頑張らなきゃいけないし、存在だけで人に迷惑をかけてしまうのに人に迷惑をかけてはいけないし、正直辛すぎます。
別に頑張りたくないわけではないです。迷惑をかけたいわけでもないです。ただどう頑張ればいいのか、どうやって迷惑をかけずに済むのか、それがわからないです。
人はそれぞれの理由で死を望む。でも、自ら死を選ぶ人はこれだけは共通しているでしょう。それは自分の命はいらない命である。
誰かにとって大切である命である限り、人は死なないと思います。
私が死んだら、おそらく妹が泣くでしょう。そしてお母さんも泣くでしょう。もしかしたら仕事を一時期できなくなるかもしれません。でも、それ以上です。その他の人は、「あっ、死んだね」で済みます。
お母さんも妹も違う国にいるし、死んでもすぐにはバレません。でもやはり誰かが伝えてほしいです。私が死んだってことを。
家族はおかしいものですね。
だから家族が欲しいかもしれません。
もうできないんですけど。
唯一の友達に何回も迷惑をかけたので、それ以上の相談もしにくいですし、唯一私がギュッと抱きしめてもいいスヌーピーちゃんは話すことはできません。
おじいちゃんおばあちゃんなら自然死を迎えるのが一番のところ、私はそれを待っても来てくれません。
死ぬ方がいいではありません。生きたいと思う人がいい。わたしもわずか二週間生きたいと思いました。本当に心の底から楽しいです。むしろ死にたい人は哀れですよ、自ら自分の命がいらない命と決めつけてしまうなんて。
神様でも仏様でもサンタ様でも誰でもいいですから、生き方を教えてください。又は殺してください。果てない辛さだけはもう嫌です。